※この投稿は映画のネタバレを含みます。
前作の感想はこちら
先日、映画「JOKER」の続編、「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」を見てきました。
賛否両論の今作ですが、私なりの感想や、考察を書いていきたいと思います。
今作は、アーサーが刑務所に入り、裁判を待つところから始まります。
裁判の内容は、アーサーに「ジョーカー」という多重人格が認められるかどうか。
多重人格が認められれば減刑となり、認められなければ有罪。
刑務所で自分を崇拝するリーと出会い、アーサーの運命は大きく変わっていきます。
アーサーは「ジョーカー」でいることに疲れてしまった。
最初は、リーやジョーカーを支持する市民たちに期待され、彼らが望むように行動しようとするが、
自分がジョーカーとして、暴走すればするほど、周りの人を巻き込み、傷つけてしまうことに気づく。
そこに純粋な悪ではなく、人間らしさを感じました。
映画の中では、刑務所での生活を共にしていたリッキーが看守に殺されてしまったことがあげられる。
また、裁判で証人として出廷した同僚のゲイリーから、「君はそんな人じゃなかった」と言われ、
恐怖を与えてしまった。
「ジョーカー」として祭り上げられることや、演じることに疲れてしまったアーサーは、
人を殺した罪を認め、「ジョーカー」ではなく「自分自身」がしたことであると自白する。
それを聞いたリーやアーサーを慕う市民は失望し、裁判所から出ていってしまう。
その後、判決が言い渡され、アーサーは有罪になるはずだったが、
裁判所が爆破され、アーサーは命からがら逃げだし、リーのもとへと向かう。
リーと再会したアーサーは一緒に暮らそうと伝えるが、
リーが崇拝していたのはアーサーではなく「ジョーカー」そのものだったため
二人は別れてしまう。
結局、前作・今作を含め、アーサーを本当に理解しようとしたのは
元同僚のゲイリーだけだったように思う。
ゲイリーのようにありのままを認めてくれる人がいたら「ジョーカー」にならずに済んだのか
ゲイリーは自分を一人の人として扱ってくれたのは、アーサーだけだと言っていた。
だからこそ、ゲイリーは「ジョーカー」ではなく、「アーサー」自身を見ようとしていたが、
その時のアーサーは、「ジョーカー」になりかけていたことで恐怖を与えてしまった。
アーサーは、自分が強者がから虐げられてきた恐怖や辛さを知っているからこそ、
自分が「ジョーカー」として強者となった時に一瞬は高揚したかもしれないが
その影響力や傍若無人なふるまいに自分自身が怖くなってしまったのではないかと思う。
アーサー自身は優しく穏やかな人物であり、病気や養育環境などからどんどん追い詰められ
「ジョーカー」にならざるを得なかった。
「ジョーカー」になったことで攻撃の矢面に無理やり立つことになり、強者になっても
周りに利用されるだけだった。
ゲイリーのようにアーサーのありのままを認めてくれる人がもっといたらアーサーはここまで苦しむことはなかったように思う。
人を見かけで判断せず、ありのままを受け入れることは容易ではない。
しかし、弱者を虐げ、追い詰めたことで「ジョーカー」は生まれてしまった。
そして、「ジョーカー」に期待や崇拝で祭り上げ、自分の意思を通すために利用した。
その責任は周りにあり、「ジョーカー」でないことに失望した観客自身にも当てはまるのではないか。
全てはアーサーの妄想? それでもいい
今回は、ミュージカル要素も多い印象だった。
前作同様アーサーの妄想なのか現実なのか不確実な所がある演出だが
たとえ、すべてがアーサーの妄想だとしてもそれはそれでいいと思う。
なぜなら、アーサーは「ジョーカー」ではないのだから。
最後アーサーは、若い囚人に〇されてしまうが、
刑務所の中も外も地獄。ならいっそ〇んだ方がマシなのかもしれない。
アーサーの魂がきちんと成仏することを願う。
あとがき
今作を見て、最初は驚きのラストでしたが、後から考えれば考えるほど深い意味を持つ映画のように感じました。
あと単純にアーサーとリーの歌がうまい!
サスペンスな展開の中のミュージカルがアーサーの中のカオスな状況を表しているようでした。
洋画はあまり見ないのですが、たまにみるのも知見が広がっていいなと思いました。
以上、映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」の感想と考察でした。
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